日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 吉良上野介を突き伏せた孟子の子孫
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~【武林唯七】
再興派と急進派の対立
ところが、一周忌を迎えても大石などが討入りに協力する様子はありませんでした。主君の仇を何としても取りたい唯七は、6月に開かれた密議において、大石に側近く仕える御家再興派の大高源五(おおたか・げんご)に対して感情を顕わにしました。
「御家老(大石内蔵助)が動かないのは、そなたらが腰抜けだからだ! 最初からその程度の志と見受けていたが、たまに威勢の良い言葉が出るので、本心から討ち入りを目指しているのかと思っていれば、化けの皮が剥がれたな!」
源五は「内蔵助殿に覚悟はある」「一緒に死ぬつもりだ」と説得をしましたが、感極まった唯七は涙を流して腹を立てていたため、それ以上どうしようもなかったと言います。
家老の大石などと力を合わせられないと悟った唯七など急進派は、同志14~5人で決起しようという計画を立て始めます。しかし、ここで大きく流れが変わりました。内匠頭の弟である浅野長広に広島藩のお預かりという処分が下され、御家再興が事実上不可能になってしまったのです。
処分が決定された直後の7月28日、京都の円山にある安養寺の重阿弥坊において密議が開かれました。この密議を経て、大石などの御家再興派は、唯七ら急進派の計画に賛同し、赤穂浪士は吉良邸討入りへと急速に動き始めました。
吉良邸へ突入!
そして、時は元禄15年(1702 年)12 月14日を迎えます―――。
討入りに加わった浪士は47人。堀部安兵衛の屋敷などで黒の火事装束に着替えた浪士たちは、寅の上刻(午前4時頃)に屋敷を出て、昨日降った雪の上にかかる霜を踏みしめながら吉良邸に向かいました。吉良邸の手前に差し掛かると、浪士たちは表門組と裏門組の二手に分かれました。
表門組に属していた唯七は、吉良邸の門前にたどり着くと周囲の浪士たちと共にこう叫びました。
「火事だ、火事だ!」
「門外から出火しているので開門せよ!」
しかし、吉良邸の門番はそれに応じようとしません。そこで唯七ら表門組は持参していた梯子を使って吉良邸へ飛び降り始めました。一番手は大高源五。それに続いて続々と浪士たちが飛び降り、油断していた門番たちは切り捨てられました。
そして、内側から閂(かんぬき)が外され、表門組は一斉に吉良邸へとなだれ込みました。
「浅野内匠頭家来、武林唯七! 主の敵討ちである!!!」
大声で叫びながら、大身槍を握りしめた唯七は吉良邸の奥へと突撃していきました。
この騒動に、北隣に屋敷を構える本多家と土屋家の家中の者が様子を伺いに屋根に登り始めていました。これを見た片岡源五右衛門(げんごえもん)と小野寺十内(じゅうない)が「これは仇討である!」と告げると、それを承諾した両家は提灯を立て並べて吉良邸を照らし出し、赤穂浪士の応援に回ったと言います。唯七ら浪士たちは、その心意気に一礼して、さらに奥へと突き進みました。